「そうは言っても、女性はどこかで抑圧されている。」と貴女はおっしゃっいました。
ずいぶん前のことになりますが、川上未映子さんの講演会でのお話。質疑応答時間があり、貴女の作品は日常に当たり前に生きている中に溶け込んでいるグロテスクやヒステリックを掬い取っている様に見えますが、特に女性に関してそれが多いように、私は思います。それはご自身が女性である以上になにか思い入れがあるように感じますがいかがですか?と訪ねた。未映子さんは力強く答えてくださった。「世代間で見られる女性観に対して立ち上がらなければという気持ちは在る。」と。『ヘブン』ではその思いがコジマに託されていた。『わたくし率イン歯ー、または世界』でもそれがわかる。「抑圧」へは『乳と卵』の緑子が敏感であった。
未映子さんのおっしゃった「抑圧」についてずっと考えていた。社会的な権利、などは平成の世の女性は結構勝ち取っているんじゃないか。そこに多少のジェンダーが残っていたとしても、目的を実行するのに不可能なほどではなさそうである。「抑圧」にはそのジェンダーも含まれるとは思うが、なにかもっとどうしようもない抑圧、月に7日間の苦難、と、それをひた隠しにする努力、超薄型タイプ、出産とそれに伴う社会との断絶期間―こういう機能的な部分で、女性は見ぬ振りできない戦いと選択を繰り返している。そして、各々でこの抑圧に折り合いをつけている。
この折り合いのつけ方に、2方向あるんじゃないかと私は思います。戦う人と、肯定する人。この抑圧を捨て去る努力をする人と、抑圧を能力として愛そうと努力する人。子供なんかいらないわ男と対等に仕事をするのよという人と、いつかきっと子供を授かってやさしい家庭を持つのよという人。そしてそれは緑子と巻子。母の豊胸手術が理解できず自分にも近々訪れるであろう初潮に嫌悪する少女と老いゆく体から女が抜け落ちてしまうことに恐怖する母。もちろん濃度の差はあれ、でもみんなどこかでこういう折り合いをつけているんでないかなぁ。私はもっぱら後者のやり方である。
なぜ自分がこんなにも「女性」に執着しだしたのかは前から自分でもずっと不思議で、気がつけば部屋の壁中は女の子の絵ばっかりだし、「乙女」や「少女」という単語に異様にときめくし、まだ世間でこんなにも女性に権利がもたらされるより前の大正昭和初期の少女達の文化を貪るし、これは一体何なのだろうと考えに考え、今一番これでないのかと思うのは、やっぱり結婚と出産を考え始めたことであった。